家康の饗応をめぐる信長と光秀の「摩擦」
史記から読む徳川家康㉗
一方、家康は19日に安土山の摠見寺(そうけんじ/滋賀県近江八幡市)で、能を見物。「道中の苦労を忘れてもらうため」という信長の配慮だった。この時の能の出来に満足できなかった信長は、ひどく立腹したという(『信長公記』『宗及他会記』)。
21日に、家康は信長の嫡男・信忠(のぶただ)とともに上洛(『言経卿記』『家忠日記』)。信長が京や大坂、奈良などの旅行を家康に勧めたためだ(『信長公記』『東照宮御実紀』)。案内役に任じられたのは、織田家家臣の長谷川秀一(はせがわひでかず)だった(『信長公記』)。
家康は26日に信忠とともに清水寺(京都府京都市)で能を見物(『日々記』)。27日に信長の上洛を知った信忠は、堺見物を中止して、京で信長を迎える準備をすることにした(「小畠文書」)。信忠と別れた家康は、29日に堺に到着し、松井友閑(まついゆうかん)の饗応を受けた(『津田宗及茶湯日記』『宇野主水日記』『石山本願寺日記』)。
なお、堺に入る前に、家康に同行していた酒井忠次(さかいただつぐ)は「西国へ出陣する」旨の書状を出しており、家臣に準備をしておくよう指示している(『家忠日記』)。どうやら信長より、秀吉の毛利攻めへの参加要請があったようだ。
一方、5月17日に坂本城に戻っていた光秀は26日、軍勢を整えて出発。居城の亀山城(京都府亀岡市)に移った。翌27日に愛宕山(あたごやま/京都府京都市)を参詣。この時、光秀は二度、三度とおみくじを引いたという。連歌師の里村紹巴(さとむらじょうは)らとともに連歌の会を催すなどして過ごした後、28日に亀山城に帰った(『信長公記』)。
29日には信長が上洛(『兼見卿記』『日々記』『言経卿記』)。京の宿所としていた本能寺(京都府京都市)に入った(『信長公記』)。なお、信長の上洛に際して公家の勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)が出迎えに赴くも、信長側から「無用」との通達があり、帰宅している(『日々記』『兼見卿記』)。
6月1日に、勧修寺晴豊が本能寺を訪れ、信長と面会。ここで信長は、晴豊と暦についての協議をしていたようだ。信長にあまりに無茶な要求をされ、晴豊は退けざるを得なかったという(『日々記』)。その後、関白の藤原内基(うちもと)や近衛前久(このえさきひさ)らも本能寺を訪れ、信長は彼らと数時間、雑談をしている(『言経卿記』)。
日本史を揺るがす大事件が起こったのは、それからまもなくのことだった。
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